仙台国際音楽コンクール

Column&Review

第4回:クラシックソムリエが案内する Road to 仙台国際音楽コンクール

クラシックを聴くおもしろさはどこにある?(2)
同じ作品なのに奏者によって演奏が違うのはなぜ?

クラシックソムリエ 高坂 はる香

◇思い描く音楽を表現する技術

 

 ある演奏を聴いて、「なんてエキサイティングで感動的な作品なんだ!」と思い、同じ演目の別のコンサートに行ったけれど、「あれ? まったく何も感じない……」。
 おもしろいことに、クラシックの演奏会ではこういったことが時々起きます。演奏家たちはそれぞれ同じ楽譜を見ているにもかかわらず、奏でるものは細部に違いがあり、結果的に、私たちに大きく異なる印象を与えるわけです。どうしてこのような違いが生まれるのでしょうか?
 それにはまず、もちろん技術的なものの差異が影響しています。難しいパッセージをスムーズに演奏できているか否かは、当然聴こえ方に違いを与えるものです。
 ただ、“技術の高さ”とは、単に間違えずに速く弾くことや、大きな音を鳴らすことのためのテクニックを意味するのではありません。頭の中で思い描いた音楽を、どれだけ思い通りに再現できるか。イメージ通りの音を鳴らすための手指、そして体のコントロール能力こそが、演奏家にとって重要な技術といえます。それを身に付けるために、演奏家は日々練習を重ねています。

 

◇弾いて練習するだけじゃない! 演奏家がしていること

 

 そして、技術以上に表現に影響を与えるのが、音楽家の作品に対する“解釈”です。
 多くの場合、楽譜には、テンポや強弱についての指示が記されています。しかしその指示の範囲内で、どんな速さ、ボリュームをとるかは演奏家の判断次第。さらに言うと、例えばある作品が怒りを表しているのか、それとも苦しみを表しているのか、演奏家がどう理解しているかによって、表現の判断も変わってきます。
 演奏家たちの多くは、作曲家が音楽に託した本当の気持ちを知ろうと、作曲家の生涯や作品が生まれた背景について調べると言います。当時の社会的状況、さらに作曲家が影響を受けたであろう他の芸術作品まで調べてゆくこともあります。
 もっともその逆に、音楽は純粋に楽譜のみから読み取るべきだという信念のもと、そうした情報をあえて一度忘れて音楽を創ろうとする演奏家もいます。そのポリシーは千差万別で、それがまた表現の違いとなるのです。
 オーケストラの場合は、それぞれ信念を持つ百人近くの演奏家が集まって一つの音楽を創ることになりますから、指揮者の存在が重要になります。指揮者は自分では音を出しませんが、事前に作品を深く研究し、オーケストラを説得できるような知識と求心力をもって、演奏をまとめてゆく必要があります。

 

◇自分を表現する? 作曲家になりきる?

 

 演奏家によって音楽に対する考え方はそれぞれ。ある人は、クラシックの作品を奏でることは「作品を通して自分を表現すること」だと言いますし、ある人は、「演奏家は作曲家の代弁者で、音楽に自分の主張が入ってはいけない」と言います。また、「楽譜に100%忠実でなくてはならない」と言う人もいる一方で、「古くは作曲家自身が即興を織り交ぜながら演奏していたのだから、自分が演奏するときもその会場の空気に合わせて変化を加えてこそ正しい」と言う人もいます。
 これらはどれもそれぞれに正しいと言えます。それぞれの演奏家が自分のポリシーに基づいて音楽を解釈しているわけで、芸術にひとつの答えはありません(コンクールではしばしば、奇抜な解釈は評価されにくいと言われますが……)。

 ここまで、演奏に違いが出る理由についていくつか挙げてみましたが、実際には、国籍、年齢、その日のコンディション、さらには単純にその人の性格など、さまざまな要素がからみあって、演奏に違いが生じます。
 たとえある演奏を聴いてその作品にあまり興味が持てなくても、違う演奏家で聴いたら、突然そのすばらしさに魅了されるかもしれません。それこそが、クラシック音楽のおもしろさ。自分がより深く共感できる演奏、または大きな刺激を与えてくれる演奏を求めていろいろなコンサートに足を運んでみると、そこには素敵な出会いがあるかもしれません。