コラム&レビュー
第6回仙台国際音楽コンクール優勝記念演奏会
キム・ヒョンジュン ピアノリサイタル【東京公演】演奏評 /道下 京子(音楽評論家)
第6回仙台国際音楽コンクール優勝記念演奏会
キム・ヒョンジュン ピアノリサイタル【東京公演】
音楽評論家:道下 京子
第6回仙台国際音楽コンクールから1年を経て、ピアノ部門の優勝者キム・ヒョンジュンが東京でリサイタルを開催した。
仙台のコンクールでは、私はファイナルで彼女の演奏するコンチェルトを2曲(モーツァルト《ピアノ協奏曲 K459》とブラームス《ピアノ協奏曲 第1番》)聴いた。コンクール当時の彼女は、2010年にパデレフスキ国際ピアノコンクールで第2位を受賞するなど、すでにいくつもの国際コンクールの入賞歴があり、韓国国立芸術大学を経てアメリカのジョンズ・ホプキンス大学ピーボディ音楽院で研鑽を積んでいた。
現在も、ピーボディ音楽院に在籍しているというキム。当夜のリサイタルでも、彼女は持ち味である高い集中力を遺憾なく発揮した。
コンクール当時の彼女の演奏について、「しっとりとした質感の美しい音の持ち主であるが、その音は管弦楽の響きに埋没することはない」と私はレポートした。今回の東京でのリサイタルで取り上げられたモーツァルト《ピアノ・ソアタ》K280でも、彼女の美点は見事に示されていた。指先の鋭敏な意識から生み出される活き活きとしたリズムと、同時に彼女特有の愛らしく清らかな感性に満ち溢れたモーツァルトである。このソナタはシンプルであるが、それを彼女はニュアンス豊かに表出した。明朗な第1楽章提示部においては音の動きや色彩の変化を細やかに表わし、続く展開部では、感情を吐露するかのようにドラマティックに表現し、提示部との対比を鮮明に描き出している。重い憂いに支配される第2楽章でも、ほの暗い情熱を掻き立てるように音楽をまとめ上げる。そしてフィナーレは、快活な動きのなかに気品を感じさせる演奏であった。
続くシューマンの《謝肉祭》は、曲目の変更によって弾くことになった作品。かつて、コンクールで演奏されたブラームスのピアノ協奏曲について、私は「内声の動きやシンコペーションなどのリズム表出がややストレートであり、楽譜の読みの浅さも感じられた」と記している。そのような側面が、シューマン《謝肉祭》に現われてしまった。20曲を大きな音楽の流れのなかでしっかりとまとめ上げ、美しい音の響きも魅力的であったが、作品のもつ複雑な感情表出や大きな喜怒哀楽があまり感じられず、平板な流れになっていた。楽譜上の音のない空間、例えば音符と音符の間や音程が生み出す高低差のニュアンス、フレーズの間などが十分に読み解けておらず、無機的な印象を与えた感は否めない。楽譜に記された音符の裏側に潜む意味が伝わってこなかったのは大変残念である。とりわけ文学が題材になっている作品ゆえに、音符と文字との意味連関、そして哲学的な思索を経た演奏があっても良いと思う。
休憩を挟んで、プロコフィエフ《ピアノ・ソナタ 第2番》。彼女の卓越した演奏技巧は、プロコフィエフのモダニズム的なメカニックを物ともせず、エネルギッシュに突き進んでゆく。また、透き通るような彼女の音の色彩によって、この作品のもつロマンティックな情趣は見事に引き立てられた。その一方で、アイロニカルな一面があっさりと表現された点は惜しまれる。
プログラムの最後を飾ったのは、ショパン《ピアノ・ソナタ 第3番》。彼女の持ち味が活かされた演奏であった。作品の骨格をスマートに捉えた第1楽章。この楽想のもつ威厳さを誇示することはせず、力みのない自然な息遣いが印象的である。指先の抜群のコントロールを通して粒立ちの揃った美しい音を紡ぎあげた第2楽章、厳かな佇まいのなかにも彼女ならではの柔らかい情感が織り込まれた第3楽章、そしてフィナーレでは音の一つひとつを丹念に鳴り響かせ、堂々とした風格を湛える。アンコールは、グリンカ=バラキレフ《ひばり》。
すでに自身の表現をもったキム・ヒョンジュン。ひたむきな姿勢で音楽と向かい合い、その気持ちがストレートに演奏に表われており、とても好感がもてる。耳の良さや直観的なセンスを備え、歌心も豊かだ。その反面、本能的な感覚のみに頼らず、作曲家が心血を注いで書き起こした譜面が意味するところをもっと深く思索してもらいたい。課題もあるが、今後の成長が実に楽しみなピアニストである。
《この演奏評は仙台国際音楽コンクールニュースレター2017年8月号に掲載された文章です》
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